京都府に全国最多の二百五十五件、滋賀に五十五件ある国宝。

02.17現在 15カ寺

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光浄院客殿 (三井寺) / 大笹原神社本殿 / 風神・雷神象(三十三間堂) / 兜跋毘沙門天立像(東寺) / 釈迦如来立像(清涼寺) /

京都の国宝

千手観音坐像(三十三間堂) / 風神・雷神象(三十三間堂) / 大報恩寺本堂(千本釈迦堂) / 五大明王像 不動明王坐像(東寺講堂) / 兜跋毘沙門天立像(東寺) / 薬師如来及び両脇侍像(醍醐寺) / 浄瑠璃寺本堂(九体寺本堂) / 線刻釈迦三尊等鏡像(泉屋博古館) / 銅造釈迦如来坐像(蟹満寺) / 教王護国寺大師堂(西院御影堂) / 毘沙門天像 (鞍馬寺) / 釈迦如来立像(清涼寺)  /

滋賀の国宝

西明寺三重塔 / 光浄院客殿 (三井寺) / 大笹原神社本殿 /
 


 
総合目録、7年ぶり改訂
京都文化財団

京都文化財団(京都市中京区)はこのほど、「京都府文化財総合目録」を7年ぶりに改訂した。国宝、重文のほか、府や市町村の指定・登録の全文化財4526件を網羅した。 

目録は所在地や築造年代、修理状況などのデータを収録した文化財のバイブル。新指定・登録のほか、国宝の今昔物語集など独立行政法人化で京都大の所有となった古文書や考古遺物など519件を新たに掲載した。 

編集した府教委文化財保護課は「文化財観賞にも役立つ」と話す。A5判、989ページ。定価3000円。問い合わせは同財団Tel:075(213)3660。 

2007.05.05

 
千手観音坐像 (三十三間堂)

昭和26(1951)年6月、国宝に指定。

湛慶作
像内に、「建長三年、同六年法勝□」等の朱書銘がある。
建長3(1251)年から同6(1254)年にかけて造立。
附、木造天蓋1面

・大きさ 構造
木造(檜)・漆箔・玉眼・寄木造内刳、1躯。
像高334.8センチ
光背全高495.4センチ
台座高220.3センチ
鎌倉時代

・縁起
後白河法皇が創建した三十三間堂本堂(正式名は蓮華王院本堂)の本尊。
南北約118メートルに及ぶ堂の中央に据えられ、左右に500体ずつ、背面を含めて1001体の千手観音立像とともに「観音の三十三応現身」を象徴的に表現、その救済力のすばらしさを示す。
長寛2(1164)年創建、建長元(1249)年の大火で、堂と本尊、千体仏の多くが焼失した。
文永3年(1266)年に再建され、本尊の千手観音坐像は、鎌倉時代の大仏師運慶の嫡子湛慶が82歳の時、慶派と呼ばれる工房の仏師たちを指揮して建長6年正月23日に彫り上げた。

・荘厳のエピソード
千手観音は正式には「千手千眼観音菩薩」と呼ばれる。
この像は、頭上仏、仏身、左右19本ずつの手や持ち物などがバランスよくまとめられ、誇張のない端正で優雅な湛慶の作風をよく伝えている。
像の下の華麗な9層の蓮華座、精巧な光背や精緻な天蓋とともに、像立当初の面影が非常に良い状態で伝わっている。

・三十三間堂の文化財
蓮華王院本堂1棟(和洋の鎌倉建築の数少ない遺構、国宝)
二十八部衆(リアルな鎌倉彫刻 28躯 国宝)
風神・雷神像(鎌倉時代 2躯 国宝)
千手観音立像(平安・鎌倉時代 1001躯 重要文化財)
南大門(桃山時代 重文) など

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坐像の手は仏身の前の合掌手と定印手をそれぞれ一つとして考え、身の左右に19本ずつ計38手、合せて「40手」と呼ぶ。
一手が、「25有界」といって、欲界、色界、無色界など細かく枝分かれした欲と苦しみの世界の救済を示し、十人十色、無限無量の苦しみを全部救う。

一つ一つのてには、その苦しみをじっと見つめる眼が彫られている。
さらに頭の上の小さな十一の面は、あちこちに眼をきかせ、四方を見回していることの象徴。
光背のたくさんの化仏も、衆生の時々の苦しみに対応する。

お金や邪心を払う武器でなく、何は無くともまず手を差し伸べるのが人を救う第一の手段だと、手に何も持たない「施無畏」という助け方もある。

仏像は、偶像崇拝はなく、いろんな仏の教えを説くための道具。
人の心を開かせるだけの何かがある。
奈良時代には仏の大きさに人が感嘆し、そうした感動の瞬間、仏の教えは人の心に入りやすくなるという。

三十三間堂も1001体の観音立像がある。
入ってきた人が、たくさんの像という救済の手立てを見て感動し、巨大な本尊でまた安心する。

 

 
大報恩寺本堂 (千本釈迦堂)

昭和27(1952)年、国宝に指定。

・大きさ 遺構
桁行5間=幅19.53メートル
梁間6間=奥行き23.19メートル
向拝1間
一重
入母屋造
檜皮葺
純和洋

・縁起
藤原秀衡の孫義空上人が、「猫間中納言」として知られる藤原光隆の従者岸高からこの地を寄進され、承久3(1221)年に小堂を建立したのが始まりとされ、承久2(1223)年に大堂建立を発願、摂津尼崎の材木商の寄進を受けて完成したという。
昭和26年の解体修理中に旧棟木(国宝)が発見され、安貞元(1227)年12月26日上棟と判明した。
もともと三学(真言・天台・倶舎)の道場で、天台宗となり、江戸時代に真言宗に改めた。

・エピソード
大報恩寺本堂建立の際、大工の棟梁の妻阿亀は、夫が貴重な四天柱の1本を誤って短く削り苦境に陥った時、他も短くそろえて桝組を用いるよう助言、無事完成させた。
しかし秘密が明らかになって夫の手柄に傷がついてはと考え完工目前に自害。
夫は阿亀の顔をなぞらえた面を扇御幣とともに本堂の梁に上げた。

・大報恩寺の文化財
本尊 木造(行快作、鎌倉時代)
十大弟子像(10躯 快慶作=享保6<1218>年銘)
六観音像(6躯 定慶作 貞応3<1224>年銘)
傳大士像 普建像 普成像(鎌倉時代)
木造千手観音立像(藤原時代)
銅造誕生釈迦仏立像
北野経王堂一切経(応永19<1412>年)
ダ太鼓縁(鎌倉時代)=以上重要文化財

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鎌倉時代そのままの赤い色彩。
極彩色で描かれた四天王。
国宝に指定された大報恩寺本堂の内陣に立つ四天柱だ。
780年にわたって、庶民の願いを受け止め、建築護持、仏法興隆、王城守護の光を放ち続ける。

現在の本堂は、安貞元(1227)年創建以来、応仁の乱や火災を切り抜けて洛中最古の木造建築物とされる。

外陣の柱には昔の戦の刀傷や槍の跡が残っているが、さすがに本尊釈迦如来の厨子を安置した内陣の柱にはまったく傷がない。
武士も仏を敬ったというか畏れたのか。

千本釈迦堂の本尊薬師如来坐像(重要文化財)は秘仏。
年に数回、特別な行事の際にのみ開扉され、お盆の六道参りの時は白い布を本尊の手から本堂前に掛けた大きな鐘に結び、その先の紐を引いて迎え鐘・送り鐘とする。

十月には全国の建築業者が本堂で法要を営む。
焼け残ったこの堂のように、自分がかかわった建物も安穏にと願う。

本堂建立の際、棟梁である夫のピンチを救った妻阿亀さんの功を偲び夫婦で参列する人も多い。
境内には阿亀の徳をたたえる宝篋印塔と、約30年前の本堂750年慶賛事業で全国の建築・造園業者はじめ約1000人が寄進して建立した阿亀さんの銅像がある。

 

 
五大明王像 不動明王坐像 (東寺講堂)

煩悩焼き尽くす激しい念

・五大明王像 不動明王坐像
承和6(839)年開眼法要。
昭和27(1952)年3月、「五大明王像(講堂安置) 5躯」の一つとして国宝に指定。

・大きさ 構造
木造・彩色、1躯。
像高 173.3センチ
光背高 318.2センチ
台座高 126.4センチ

・縁起
平安京の安穏を祈願して、宮都の南、朱雀大路の東西に勅命で造営された二寺の一つ「東寺」の寺域から動かず今に至る。
弘法大師空海は諸堂、五重塔などの造営を進め、工事は承和11(844)年講堂の五仏・五菩薩・五忿怒(明王)の諸尊供養が行われる。
文明18(1486)年、土一揆のため金堂・諸堂・南大門などを焼失。
明応6(1497)年、諸堂の大日如来像造立。
慶長7(1602)年仏師康正が諸堂五大尊修理。
昭和28(1953)年諸堂の五菩薩、梵天、帝釈天を修理。

・文化財
境内全域は、ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」として登録されている。
国宝や重要文化財に指定された建造物や美術工芸品は数多い。
国宝の主なものは、五重塔や御影堂、彫刻では諸堂内の五菩薩(中尊以外の4躯)・五大明王・梵天・帝釈天・四天王の15躯の仏像、御影堂内の秘仏不動明王坐像と弘法大師坐像、ほかに八幡三神像、兜跋毘沙門天立像、絵画の真言七祖像、不動明王などの五大尊像、書跡では空海の真筆「風信帖」、工芸品の海賦蒔絵袈裟箱、金銅密教法具など。

境内にある宝物館は春(3月20日〜5月25日)と秋(9月20日〜11月25日)に特別公開している(有料)。

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日本最古という不動明王坐像。

宇宙の運行、生命の作用、精神の動きのすべてにエネルギーと秩序を与えるという真言密教の主尊「大日如来」が、目先の「欲」や「不安」に迷う衆生に怒りの形相を示して生の真実に目覚めさせる姿が不動明王だという。

左手が握る羂索は、衆生が体の苦しみ「煩」や心の苦しみ「脳」に縛られていることを象徴し、右手につかんだ三鈷剣はその煩悩を断ち切る仏法。
「わが身を見るものは菩提心を起こし、わが名を聞くものは悪を断ち善を修し、わが説を聞くものは大知恵を得、わが心を知るものは即身に成仏せん」と念を凝らし説く姿でもある。
大きな光背の火炎は、衆生の煩悩を焼き尽くす念の激しさを示す。

日本に初めて不動明王を仏道に安置したのは空海。
唐に渡って首都長安でインド伝来の最新仏教「密教」に接し、生きながら仏と一体となって衆生の諸願を成就する経典、修法、法具を日本にもたらした。
嵯峨天皇の不安を除くなどして御所内への真言院開設を認められ、東寺の整備も託された。

空海はその東寺を「教えの国、国を守る寺」と改称して密教道場にし、密教の根本経典「仁王教」に基づいて「教王護国」の大願を目に見える姿にしようと、不動明王坐像、大日如来坐像など二十一体の仏像を大きな壇の上に配した「立体曼陀羅」を構想したのだろう。

密教の諸尊の中でも、特に強烈な印象を与えるのは五大明王像だ。
その中央に位置する不動明王像は、鎌倉時代の修理の際、大仏師運慶が頭部に小さな舎利容器の埋められているのを発見した。
室町時代の文明の土一揆で講堂が焼失した際には、大日如来像などは失われたが不動明王など十五体は運び出されて空海のイメージした姿のまま光を放つ。

 

 
薬師如来及び両脇侍像 (醍醐寺)

病と心癒す慈悲たたえ

・薬師如来及び両脇侍像
醍醐寺を開いた理源大帥聖宝の弟子の真言僧で、東寺諸像の造像にもかかわった会理(852−935)が造像にあたった。
上醍醐・薬師堂(国宝)創建当初からの本尊で、延喜13(913)年には完成していた。
昭和28年に、中尊の薬師如来坐像、左脇侍の日光菩薩立像、右脇侍の月光菩薩立像が、薬師三尊像として国宝に指定された。

・大きさ 構造
薬師如来座像は高さ176.1センチで榧の一木造、内刳を施している。
日光菩薩立像は同119.9センチでやや動きのあるポーズ、月光菩薩立像は同120.9センチで静かなたたずまいを感じさせる。
両観音像とも檜と思われる。

・縁起
深雪山醍醐寺は真言宗醍醐寺派総本山で、笠取山上の「上醍醐」と西麓の伽藍「下醍醐」の広大な寺域で構成される。
奈良の東大寺、元興寺、興福寺などで活躍した聖宝(832−909)が、貞観16(874)年に、山岳信仰の1拠点として笠取山上に観音堂を開いた。
聖宝は密教修法で数々の霊験を現し、崇敬を集めた。
その法灯を継いで、醍醐寺は修験道の整備を進め、桃山時代には当山派本山に。
「醍醐寺」の名は、聖宝が笠取山に瑞雲のかかるのを見て登り、何とも言えないおいしい湧水を見つけたことから、釈迦が悟りを開いて断食後に口にした美味にちなんで付けたという。

・醍醐寺の文化財
上醍醐の薬師堂、如意輪堂(重要文化財)、開山堂(重文)などのほか、下醍醐にも三宝院表書院(国宝)、五重塔(同)、金堂(同)などが点在する。
文化財の保護・展観を進めている霊宝館は、図像。聖教、国史史料も多く、専門家が長年調査を続けている。

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慶長3(1598)年の春、醍醐の花見に先駆けて、豊臣秀吉はこの下醍醐から東へ一時間ほど、山道を登って上醍醐へ向かった。
笠取山(醍醐山、標高450メートル)の山上に建てられた薬師堂でこの像に参詣したのち、下って花見の宴を繰り広げたという。

薬師如来は如来になる前、菩薩の時代に、衆生の病苦を除き、安楽を与えるとの「十二の大願」を発したとされ、その現世利益の功徳によって飛鳥、奈良時代から盛んに信仰された。
続命法といって、四十九の灯明をともした中で薬師如来に向かって薬師経を四十九遍唱える修法を行うと、重病の人の意識は意識は回復し、命を長らえさせることができると信じられた。
像は、左手に薬壺を載せる。

正式名称を「薬師瑠璃光如来」という薬師如来。
薬師如来本願経に「瑠璃を地とした、皆七宝をもって成ずること極楽国の如し」と記された東方はるか彼方の浄瑠璃世界に、日光菩薩、月光菩薩らと住む。
太閤にとって「醍醐の花見」は、一世一代の浄瑠璃世界現出であったのであろうか。

霊宝館に鎮座する薬師三尊像は、平成12年10月まで、笠取山上の上醍醐伽藍にある薬師堂に祀られていた。
平安時代、延喜13(913)年ごろの造像以来、そのままの姿で、あまたの僧侶や貴族、武家、商人、農家らの崇敬を集めた。
近年まで近在の信者たちが麓から野菜や米、酒などを携えて40分、あるいは1時間山道を登り、お薬師さんに供えて「オン コロ コロ センダリ マトウギ ソワカ」と薬師真言を唱え、無病息災を祈ってりりしい表情に安堵の念を深くしたという。

山上には、薬師堂のほか清瀧宮拝殿(国宝)、准胝堂(西国三十三ヵ所観音霊場十一番札所)などが建つ。
しかし雷などの災害は堂を損ない、今、山上の消防水利は乏しい。
醍醐寺は地域の信者らに諮り、千年を超えて伝わる薬師如来像をさらに後世に伝えようと、寺発祥の地、醍醐水のわく上醍醐から像を霊宝館に移し、主尊とした。

 

浄瑠璃寺本堂 (九体寺本堂)

里満たす命の水、阿弥陀の光

・浄瑠璃寺本堂
「九体阿弥陀堂」とも呼ばれ、平安時代に貴族らが盛んに造営した九体阿弥陀堂の現存唯一の遺構。
平安時代。
嘉承2(1107)に解体移築され、新本堂として棟上げされた。
保元2(1157)には宝池の西岸に移築された。
寛文6(1666)に檜皮から瓦に葺き替え、江戸末に向拝を設け、明治33(1900)に解体修理。
昭和27年3月、国宝に指定。

・大きさ 構造
桁行(正面)11間(25.3メートル)、梁間(側面)4間(9.08メートル)、一重、寄棟造、向拝1間、本瓦葺。
天井まわりは屋根のこう配そのままのすっきりした化粧屋根裏。
9体の阿弥陀如来坐像を後寄りに安置し、像の前と左右の端に高い供物壇を設け、全体に金具で珠門と剣巴文を施す。
大きな中尊の阿弥陀如来像の周りは柱を太く高くし柱間も2倍に。

・縁起
浄瑠璃寺所蔵の「浄瑠璃寺流記事」(重要文化財)によると、最初、地元の豪族阿智山太夫重頼が檀那となり、義明上人を招いて永承2(1047)年に薬師如来を本尊とする堂を草創、西小田原寺と呼んだ。
久安6(1150)年、浄土信仰を広めた恵信僧都がこの寺を興福寺(奈良市)御祈所とし、伽藍も整備。
応永17(1410)年には4日間450人で堂前の池の泥をさらえた。
明治に西大寺(奈良市)の末寺となり真言律宗に。

・浄瑠璃寺の文化財
国宝ではほかに木造阿弥陀如来坐像(9躯、平安時代)、初層の柱や壁に仏などを描いた三重塔(1棟、平安時代)、截金文様と彩色が見事な木造四天王立像(4躯、平安時代)がある。
重要文化財も、柔らかな女性美を豊潤な彩色で表現した木造吉祥天立像(1躯、鎌倉時代)、三重塔の本尊・木造薬師如来坐像(1躯、平安時代)などがある。
浄瑠璃寺庭園は昭和40年に国の名勝・史跡に指定。

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京都と奈良の府県境に近い山間。
南、東、西を山が囲む小さなくぼ地に西小田原山浄瑠璃寺がある。

池は「宝池」。
平安時代の浄土式庭園の遺構。
昭和51年、造園当初のすがたがよみがえった。

廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治初め。
浄瑠璃寺の周りの里人たちは、田の水の命の源、浄瑠璃寺を守り続けた。

阿弥陀経は阿弥陀如来が住む極楽浄土をこう描く。
「有七宝池 八功徳水 充満其中 池底純以 四辺階道 金銀瑠璃 玻リ(王+黎)合成 上有楼閣 亦以金銀瑠璃 玻リ(王+黎)シャー(石+車)コー(石+渠) 赤珠碼碯 而厳飾之 池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔」

 

西明寺三重塔 -滋賀県甲良町-

荘厳な初層壁画、菩薩の温かみ

・西明寺三重塔
鎌倉時代後期に建てられた木部と白壁の対比が美しい純和洋の三間三重塔。
総檜造りで飛騨の匠が建立し、釘を用いていないという。
屋根は檜皮葺。
明治三十三年に国宝に指定され、同四十一年から解体修理。
昭和二十七年国宝(新国宝)に指定。
同四十八年屋根を葺き替え。

・大きさ・構造
高さ23.7メートル。
中世の彩色建築の代表的作例といわれ、初重の内部は四天柱の内側を須彌壇として本尊・大日如来坐像を安置、須彌壇として床板を除く全面に菩薩像、仏具、花鳥文、法華経変相図を極彩色で描いている。
絵は宮廷画師巨勢派が純度の高い岩絵の具で描いており、残存状態が非常に良い。

・縁起
西の池から光明が差したことにちなんでこの寺名があるという名刹。
「湖東三山」の一つで、平安時代の承和元(834)年、三修上人が仁明天皇の命で開創。
平安、鎌倉、室町時代と顕教密教の教えを合わせ説く天台密教の祈願・修行の道場として栄え、山内には17堂舎、300の僧坊があったという。
織田信長が比叡山焼き討ち直後に元亀2(1571)年西明寺焼き打ちを命じたが、本堂、三重塔、二天門は火難を免れ現存。
江戸時代、天海、公海の2大僧正が尽力して、望月越中守友閑が復興。
寛文年間(1661−73)彦根藩家老が部分的修繕を行い、天和元(1681)年に本堂・三重塔の大修理開始。

・西明寺の文化財
国宝は三重塔ほか、鎌倉初期建造の本堂(純和洋、檜皮葺)がある。
重要文化財では本尊薬師如来(平安時代)、釈迦如来立像(鎌倉時代)、不動明王・二童子像(平安)、二天像(平安)、二天門(室町時代)、十二天画像(鎌倉)、錦幡(室町)、石造宝塔(鎌倉)がある。
庭園「蓬莱庭」は国の名勝。

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湖東三山の一つ西明寺の三重塔は、『かくれ里』を書かれた白州正子さんが、「ここは自分の隠れ里にしておきたい」とか、五木寛之さんは、「今まで見た中で一、二を争うプロポーションの美しい塔だ」と話す。

中央の本尊・大日如来座像(鎌倉時代)を囲む須彌壇回り、四天柱に描かれた柔らかな表情の三十二菩薩(金剛界曼荼羅の三十七菩薩の内)、側回りの板壁に描かれた法華経八巻二十八品を絵解きする大和絵風の変相図(法華経曼荼羅)、小さなますごとに菊花文様を端正に描き込んだ折上小組格天井、長押の極楽鳥、牡丹、法相華、板扉の護世八方天像といった極彩色の仏画、装飾文様の数々が、美の洪水となって心をとらえる。

華麗な初層の荘厳は、三重塔が建造物として国宝に指定されたとき「附(つけたり)」として国宝となった。
しかし、その剥落止めのための保存修復を早く進める必要から、近年、初層の中世彩色壁画だけが重要文化財に指定し直され、京の文化財修復関係者の手で弱った部分などを美術工芸品の手法で修復、四年がかりの作業が昨年(H18)完成した。

 

 
線刻釈迦三尊等鏡像  -泉屋博古館-

天台ゆかりの如来、諸尊像か

・線刻釈迦三尊等鏡像(瑞花鴛鴦八稜鏡)
平安時代(12世紀)
世界的に著名な中国古代青銅器の優れた収集、住友家コレクションの中に含まれる和鏡。
昭和29年国宝に指定。
城陽市の久津川車塚古墳出土鏡(重要文化財)などと泉屋博古館で披露。

・大きさ 構造
一面。
径15.1センチ、縁の厚さ1.2センチ、重量778グラム、
研ぎ澄まされた鏡面に仏、菩薩、天部などの像を鏡面いっぱいに毛彫りで表現し、像は光の反射によってさまざまな表情を見せる。
中央の如来は、多重の豪華な蓮華座に座し、左右の普賢像もともに光背を負う。
その下に象に乗った普賢菩薩獅子に乗った文殊菩薩を描き、最下段には仏法を守護する毘沙門天と、二童子をしたがえた不動明王の姿を表す。
諸尊像の上部から全体に散華の花びらが舞い、下に草木を配して日本的優美さで仏世界を荘厳する。
緻密に施された軟らかく抑揚ある線刻が鏡像から優しい雰囲気を醸し出す。
平安時代末から鎌倉時代初めにかけての白描図像と表現が共通する。

・縁起
この国宝の鏡像の来歴は不詳だが、鏡像や中国古代青銅器などの優れた青銅器コレクションは、主に住友家15代当主吉左衛門友純(号春翠)が京都帝国大学の専門学者らの助言を得て、20世紀初めから30年程の間に自らの審美眼で集めたものが中心。
館名は、四国・別子銅山などを経営した住友家の屋号「泉屋」と、中国・北宋時代編纂の銅器図録「博古図録」にちなみ、春翠の実兄西園寺公望が染筆。
昭和35年に中国古代青銅器など5百数十点で財団法人を設立し、45年に常設展示館開館。
昭和55年には住友家から中国書画類約100点が寄贈され、昭和60年、平成6年にも日本書画、茶道具などが住友家から寄贈された。
昭和61年には新館を増設。
現在、収蔵品は約3000件。

・泉屋博古館の文化財
国宝では中国・宋代(12-13世紀)の「秋夜牧牛図」、重要文化財では石濤筆「黄山図巻」 1巻=清康熙38(1699年)=、八大山人筆「安晩帖」 1冊=清康熙33(1694年)=、徐九方筆「楊柳観音像」 1幅=高麗至治3(1323)年=、佐竹家伝来「三十六歌仙切 源信明」 1幅=鎌倉時代=などがある。

・開館
3月中旬〜6月、9月〜12月中旬の午前10時〜午後4時半(入館は午後4時まで)。
期間中の休館は月曜(祝日の場合開館)と展示入れ替え日。

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国宝に指定された文化財は、多くは、多様な伝来の物語、縁起を伴っていることが多い。
しかしこの和鏡、指定件名「線刻釈迦三尊等鏡像(瑞花鴛鴦八稜鏡)」は物語も何もない。

館は、この鏡を立てかけ、仏像などを毛彫りと呼ばれる緻密な技法で彫った白く輝く鏡面と、鴛鴦(おしどり)などを浮き彫りに表現した背面の両方をじっくり鑑賞できるよう、装置をアクリルで作って独立ケースに納める。

メディアが撮影する際、光が鏡面に反射して毛彫の像の隅々を均等にくっきりととらえることがむずかしい。
角度によっては汚れも写ってしまう。

鏡像の内容について、比叡山・横川にルーツがある如来と四菩薩のかたちそのもので、主尊は阿弥陀をイメージした可能性もあるらしい。
円仁が開いた横川の根本如来法塔は如来の周りに文殊、普賢、観音、弥勒の四菩薩を配した姿で、毘沙門天と不動明王のセットは横川中堂が始まりと言える。
密教では師僧が弟子に灌頂を授ける時、明鏡を与え、その鏡に向かって心に仏を念じ、自分と一致させる観相に使うが、天台では見えた仏を実際に鏡に描くことがあっても不思議ではない。
平安末は現世救済の阿弥陀を胴体と考えた発想もある。
この鏡像は多方面の要素を考慮すべきで、法華経、阿弥陀経、曼荼羅のすべてを説く顕密一致の教えと深いかかわりがある。

さらに、同時代の鏡像で重要文化財に指定された醍醐寺(伏見区)所蔵の「阿弥陀五仏鏡像」と毛彫りの技巧や像の表現がよく似ていること、釈迦三尊ならば国宝の鏡は普賢・文殊の両菩薩が上に置かれるべきなのに、阿弥陀三尊の形の観音に似た菩薩が両側に配されている点なども指摘される。

美の背景にある天台の教義から導かられる知と、美を探究する感性が響き合い、国宝に新たな像が浮き立つ。
直径十五センチ余りの小さな鏡像から、広大無辺の仏世界が浮き上がってくる。


 
銅造釈迦如来坐像  (蟹満寺)

堂々たる風格、天地と一体

・銅造釈迦如来坐像
1躯
奈良時代(8世紀)
昭和28年、国宝に指定。

・大きさ 構造
坐高240.3センチ、推定重量7.04トン。
金銅、蝋型鋳造。
鍍金はほとんど失われ黒光りする。
頭部が大きく、肩張りが強く、前後の量感に富んでひざも大きく張り、雄大な気風を示す。
螺髪、白毫は造らず、手の指の間のカエルの水かきに似た「曼網相」と呼ばれる膜を設ける。
巨像を一度に鋳上げたため所々に補鋳がある。

・縁起
蟹満寺は奈良時代に渡来人の秦和賀によって創建され、行基がかかわるなど民衆の信仰を集めた。
境内は200メートル四方あったという。

・エピソード
『今昔物語』巻16の第16に「蟹の恩返し」として知られる<蟹満寺縁起譚>がある。
昔、山城国に観音経を深く信仰する娘がいた。
娘は、蟹を捕まえて食べようとする人と出会って家の魚と交換、蟹を川に放した。
父親は、田で蛇がカエルを飲み込もうとしているのを見て、思わず、カエルを放してくれたら婿にしようと約束しカエルを助けた。
蛇が訪れて一家は苦境に陥るが、娘が倉にこもって観音経を念じていると僧が現れて呪文を教えた。
倉を取り巻いた蛇には多くの蟹がとりついて蛇を断ち切り、娘を守った。
亡くなった蛇の苦しみと蟹の罪報を救おうと遺骸を埋めてその上に寺を建て、仏像を造った。
寺の名を蟹満多寺という、という話だ。

・蟹満寺の文化財
国宝釈迦如来坐像のほか聖観世菩薩坐像(藤原時代)など。

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頭が天井を突き上げそうな大きな仏さん。
高さ2.4メートルほどの黒々とした国宝「銅造釈迦如来坐像」が基壇の上から蟹満寺の本堂空間を豊かな重量感で満たす。

堂々とした風格ある顔立ち、がっしりした体、はるか南を静かに見つめる目。
この世にありながら、宇宙のリズムと一体化した天地人一如の境地に安座するかのようでもある。

この像には不思議な言い伝えがある。
「大きな異変のある前には必ず汗をかかはるんです」。
太平洋戦争終戦の一週間ほど前や、昭和28年8月の「南山城大水害」の前には汗をかき、先代住職が檀家の人たちと一緒に白布で汗をぬぐった。

水害の時、堂の北の天井川があふれて本堂の床上まで水につかった。

今秋(2007)、寺は本堂の建て替えに着工する。
江戸中期再建の堂を、天井を約二メートル高くし、広さも二倍にした新本堂にする。
国宝の釈迦如来坐像に釣り合う空間を目指す。
完成は四年後の春の予定。
国宝はその間仮設の工房へ。

平成2年、本堂西の庫裏の下を発掘調査、創建当初の本堂跡と思われる白鳳時代の遺構が見つかった。
このお釈迦さんはその遺構のほぼ中央に位置しているから千三百年間、同じ場所にまつられている。

本堂の南約三キロ、「三角縁神獣鏡」が三十数面出土し「邪馬台国の女王卑弥呼が与えた鏡か」と注目を集めた前方後円墳椿井大塚山古墳がある。
さらに南には高麗寺跡も。
古代、この一帯は先進的な東アジア文化が薫る里でもあったようだ。


 
教王護国寺大師堂 (西院御影堂)

優美な堂に生き続ける空海

・教王護国寺大師堂(西院御影堂)
1棟
後堂、前堂及び中門より成る。
昭和33年国宝に指定。

・大きさ 構造
後堂は、桁行7間 梁間4間 一重 入母屋造 北面西端2間庇 東面向拝1間、南北朝時代(康暦2=1380年)建立
前堂は、桁行4間 梁間5間 一重 北面入母屋造 南面後堂に接続、南北朝時代(明徳元=1390年)に増築
中門は、桁行2間 梁間1間 一重 西面切り妻造 東面前堂に接続、南北朝時代(明徳元=1390年)に増築
各、総檜皮葺
附、厨子1基(1間春日厨子、板葺)、棟札5件
蔀戸、妻戸などを用い、寝殿造住宅や中世寺院住房の形態を推察する好資料とされる。

・縁起
東寺境内西北の一角「西院」で、当初は不動堂と呼ばれ、空海の住房の跡とされる。
堂は南面する不動堂(前堂)がはじめに建てられ、弘法大師坐像の礼堂そして北面する大師堂(後堂)などを増築。
鎌倉時代の天福元(1233)年に弘法大師坐像を祀るようになって以後「御影堂」と呼ばれ、毎月21日の御影供も始まって縁日「弘法さん」のルーツとなった。

・東寺の文化財
御影堂の北面後堂の本尊弘法大師坐像(国宝)は毎月21日の御影供などで開扉されるが、参拝席からは見えにくい。
南面前堂の不動明王坐像(国宝、平安時代)は秘仏。
御影堂東の東寺境内に、不動明王坐像(国宝、平安時代)など多くの国宝・重要文化財が曼荼羅世界を立体的に表わす講堂(国宝)、金堂(同)、五重塔(同)などがある。

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「弘法さん」、京都市民や国内外の観光客が訪れる縁日。
そのにぎわいのルーツは、東寺(教王護国寺)境内の西北にあるこの御影堂だ。
「大師堂」として国宝に指定されたが、弘法大師空海の命日の法要「御影供」にちなむ名で親しまれている。

堂の奥の厨子には鎌倉仏師康勝が彫った大師坐像(国宝)。

空海の住まいがあった跡とされる西院の御影堂で毎月21日午前10時、東寺の僧侶が弘法大師像(国宝)の前で御影供の法要を仕える。
理趣経、真言、尊号「南無大師遍照金剛」の声が堂を満たす。


 
毘沙門天像 (鞍馬寺)

都と人、自然を守るまなざし

・毘沙門天 及び 吉祥天 善膩師童子 立像3躯
平安時代(11-12世紀)
毘沙門天像を中尊とする三尊形式。
吉祥天は大治2(1127)年の前年に火災で焼失し、再造したと胎内経で分かる。
ほか2躯の造像時期は諸説ある。
昭和27年に国宝。

・大きさ 構造
毘沙門天は橡の一木造りで高さ176.0センチ。
豊かな量感を持ち、衣のひだなどを浅く刻んで温雅な雰囲気を醸す。
毘沙門天としては異色。
善膩師童子も橡の一木造りで高さ95.4センチ、巧みに童子の表情や姿をとらえる。
吉祥天は檜による一木造りで高さ100.0センチ、面相や彫り方はおとなしい。
皆、瞳に墨、唇に朱を用いるほか素地仕上げ。

・縁起
奈良・唐招提寺を開いた鑑真の高弟鑑禎が宝亀元(770)年鞍馬山に草堂を建て、毘沙門天像を安置したのが寺の始まり。
平安遷都の翌々年、延暦15(796)年に造東寺長官の藤原伊勢人が夢に白馬を見て鞍馬寺伽藍を建立、信仰していた観世音菩薩の像などを安置。
暦仁元(1238)年全山伽藍を焼失し、10年後に再興供養。
文化11(1814)年にも本堂などを焼亡。
昭和22年鞍馬弘教を開宗し、本堂金堂などを整えた。

・鞍馬寺の文化財
国宝はほかに本殿金堂後方から出土の鞍馬寺経塚遺物一括(平安-鎌倉)。
重要文化財は木造聖観音立像(鎌倉)、木造兜跋毘沙門天立像(平安)、伝坂上田村麻呂所用黒漆剣(平安)、銅灯篭(鎌倉)、鞍馬寺文書(1巻、鎌倉-室町)など。
与謝野晶子書斎「冬柏亭」も移築。

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毘沙門天は、仏法で北方を守護するとされる。
平安時代後期に造られたというこの立像は、平安京の北方、御所の東北にある鞍馬寺から、宮都に魔が入らないよう、山上や雲の上から目を凝らし、じっと見張っているかのように見える。

隆々0たるほお、どっしりした体躯は、金星から地球に降り立って鞍馬山に住まうと説かれている。
天地自然万物の根源、鞍馬寺の本尊「尊天」の気をみなぎらせる。
尊天は鞍馬寺が戦後、天台宗から独立して鞍馬弘教を創立した際に主尊となった。
毘沙門天、千十観世音菩薩、護法魔王尊の三尊を一体として尊崇し、鞍馬寺奥の院には魔王尊のお堂がある。

寺は、古来たびたびの火災で伽藍を失ってきた。
それだけに、戦後の伽藍再建は、本殿金堂をはじめ、毘沙門天立像など仏像や自然環境の展示、この山で武術を磨いた牛若丸(源義経)にちなむ品々などを披露する霊宝館の構造を、鉄筋コンクリートの耐火構造にさせた。

しかし、仏の心を生きたものとして尊ぶ信仰は、石と鉄の構造物に畳を敷かせる。
毘沙門天像や聖観音菩薩像などの仏像が並び立つ殿三階の空間は、靴を脱いで入る仏殿にもなっている。

三尊像の左には、しめ縄を張った古木も立つ。
鞍馬山の、1950年の台風で倒れた千年杉の一部だ。
ご神体として殿内の一角を占め、いくつかの部分は本殿金堂の光明心殿の主尊・魔王尊像など仏像に彫り上げられて諸堂に祀られている。

山に満ちる気と平安宮都を祈る仏の力が霊宝殿三階の仏殿にあふれ、四角や菱形の飾りとビーズのような球を上下左右に結んで天井から下がる「羅網」とともに、遍満する多様な命が限りなく連環する宇宙を象徴する。

光浄院客殿 (三井寺)

・光浄院客殿一棟。
慶長6年(1601)年建立。
明治36(1903)年解体修理。
昭和27(1952)年国宝指定。

・大きさ、構造
桁行7間、梁間6間、一重、入母屋造、妻入、正面軒唐派風付。
中門、桁行1間、梁間1間、切妻造、総柿葺。
室を2列に配し、南面に広縁を設ける。
室列の西奥の「一之間」は、正面に狩野派の障壁画のある大床、違い棚、上段の小室を設け、北面も障壁画の並ぶ帳台構え。
桃山時代書院造の典型とされる。
東面の入り側は、車寄せ部分の妻戸、横筋の連子窓、蔀戸などが寝殿造りの様式を伝え、明快簡潔な間取りは江戸幕府の大棟梁平内家の伝書『匠明』にある「武家主殿之図」と同じで武家住宅の遺構でもある。

・縁起
奈良時代前期に建立され、天智・天武・持統の3帝が産湯をつかったという霊泉にちなんで「三井寺」の名で親しまれている天台寺門宗の総本山。
貞観元(859)年円珍(智証大師)が園城寺長吏(官長)となる。
たびたび火災や戦火に遭い、文禄4(1595)年には豊臣秀吉から「闕所」を命じられて大半の堂塔が比叡山などに移された。
園城寺長吏聖護院道澄、光浄院暹実、勢多城主の次男で光浄院に入室して暹慶となった後還俗した宮内卿法印道阿弥の3人が尽力し、慶長3(1598)年に死去前日の秀吉から再興許可を得て唐院など堂塔を次々再興。
光浄院客殿も慶長6年に竣工した。
北政所は秀吉の遺命で大金堂を寄進、徳川家康も山門と楼門を移築、朝廷も不動明王像などを寄進。

・文化財
国宝ではほかに智証大師坐像(御骨大師、木造彩色1躯、9世紀)、智証大師坐像(中尊大師、木造彩色1躯、10世紀)、不動明王像(黄不動、絹本著色1幅、9世紀)、新羅明神坐像(木造彩色1躯、11世紀)、園城寺金堂(1棟、1599年)、勧学院客殿(1棟、1600年)などがある。

・行事

・拝観
光浄院客殿は一般公開をしていない。
特別拝観(午前9時半から午後3時半)は、往復はがきに住所、氏名(代表者)、連絡先・電話番号、人数、参観希望日時(第2希望まで)を書いて、3人以上で三井寺事務所へ申し込む。
境内拝観料に加え1人600円の志納金が要る。

〒 520−0036
大津市園城寺町246
п@077(522)2238

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優雅と簡素 融合させた建築美

大きな松と滝の障壁画が、十八畳の広間「一之間」をぐんと明るく、のびやかに見せる。
光浄院客殿の奥の間。
横板をすっと伸ばした違い棚、繊細に造作した上段の小室とともに、彩り豊かな風俗屏風や華やかな工芸を生んだ安土桃山時代の豪華で自由な空気を伝え、すがすがしい。

この客殿は、三井寺の名で親しまれている園城寺の迎賓館でもある。
仏教各派の館長らが挨拶に訪れると、「一之間」の上座(違い棚の前)に迎えて、園城寺の長吏(館長)が庭を背にして対する。
賓客が国の名勝史跡に指定された庭を楽しめるように、との配慮だ。

普段閉じられている建物は、特別拝観を申し込んだ学生や学者、国宝を訪ね歩く夫婦、日本建築愛好家らが訪れると、園城寺の文化財担当者が東面する入り側の扉を開け、蔀戸を上げ、木戸を引いて座敷に光を入れる。

障壁画は、一之間に続く二之間の襖にも描かれている。
四百年を超える歳月が緑の絵の具を剥落させ、黒く残った線は遠目に水墨画のように映る。
しかし、ゆっくり視線を動かすと、薄暗い中から牡丹の赤い花の色などが視界に入ってくる。
残った何ヵ所かの彩色が狩野派の手になる当初の姿をうかがわせる。
昔は薄暗い光の中に座って絵を見たのだろうか。

光浄院客殿は室町時代にあった十円坊の跡に、その庭園を生かして近江の勢多城主山岡氏が桃山時代の寝殿造りの妻戸や唐派風、蔀戸を残しつつ、間取りは江戸時代の武家住宅の基本的となる「主殿造」を忠実に示す。
さらに書院は桃山時代の雰囲気を漂わせるしつらえ。
「日本の建築史が、時代を超えて一つの建物に集まった珍しい例」と言われている。
江戸時代の大工の教科書『雛型本』は、この光浄院客殿の平面図を主客殿の典型として紹介している。

1954年、古今東西の建築をテーマにした特別展がニューヨーク近代美術館で催された時、この光浄院客殿とそっくりな建物が、木造建築物の代表として米国で建築、再現された。
展覧会後はフィラデルフィア公園内にある日本庭園に移築され、「松風荘」の名で現地のお茶会、華展などの場に用いられている。


 
大笹原神社本殿

大笹原神社本殿 1棟。
室町時代の応永21(1414)年再建。
昭和2(1927)年解体修理。
昭和36(1961)年国宝に指定。

・大きさ、構造
正面3間、側面3間、一重、入母屋造、向拝1間、檜皮葺、附、棟札11枚。
手前の1間が外陣、奥の2間が内陣。
内陣の後列の1間を内々陣として3室に区切り、牛頭天王(須佐之男命)、八王子、婆利采女(櫛稲田姫命)を祀る。
屋根は傾斜が急で反りが大きい。
外陣の柱の上には植物文様や宝珠の浮彫のある蟇股、外陣の正面と脇には繊細華麗な花狭間による斜格子戸をはめている。
格子戸の鴨居の上に密教の法具「三鈷杵」の透かし彫りを施す。
脇障子には若葉の浮彫をし、腰長押の下には仏殿で用いる蝙蝠狭間が連なる。
細やかで多様な意匠が室町文化の華やかさを今に伝えている。
彩色はほとんどが剥落し、素木の印象を与えるが、蟇股などには往時の彩の跡も見受けられる。

・縁起
大笹原神社は鏡山の西のふもとにある古社で、辺りに平安時代から宿駅「篠原」があった。
一帯では良質のもち米がとれ、平安時代、鏡もちを朝廷に献上した。
大笹原神社は寛和2(986)年に越知諸実が社領を寄進して社殿を創建、応永21年に戦国大名佐々木六角氏の重臣馬淵定信氏が中心となって現在の本殿を再建した。
氏子による強固な宮座が天王神事を中心とした宮座行事を継承し、永正4(1507)年から続く頭人(神事を担当する家の主)の差定状(指名通達文書)が残されている。
本殿の右には「寄倍の池」と呼ばれる沼がある。
水不足の時、神輿を二基沈めて祈願したところ霊験があり、以後はいくら日照りが続いても池が枯れることはないという。
朝廷に鏡もちを献上したいわれから鏡もちの元祖を祀る「餅の宮」(篠原神社)も境内にある。

・大笹原神社の文化財
国宝の本殿のすぐ左に建つ篠原神社本殿(応永34=1427=年建立、一間社隅木入り春日造、檜皮葺)は重要文化財。
宮座の古文書などを野洲市立銅鐸博物館=野洲市辻町57−1 電話 0775874410、月曜休館(祝日の場合は開館)=に展示。

・拝観
境内の拝観は自由。
本殿の拝観は普段は受け付けていない。

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宮座と生きる室町の華麗な社

鏡山から連なる緑深い杉の木の重なりの裾に、室町時代造営の大笹原神社本殿が静かにたたずむ。
風雨にさらされて色彩の底から抜け出した素朴の姿は、清浄な空気を辺りに漂わせる。

神社の建築としては珍しいという入母屋造。
すっと下がった屋根が、中の透けて見える斜格子戸とともに「綺麗」といった印象を生む。

能、狂言を生み、水墨画が広がり、書院造の座敷で生け花などが誕生していく時代。
平安時代から、宮廷に鏡もちを献上し続けた大篠原の里の気風をとどめているかのように、本殿は清浄感の中に繊細華麗の風を帯びる。

正面から一間の外陣を囲んだ斜格子戸は、方形を斜めにつなぎ、その中に円を描いて現代のモダンな金属の格子を思わせる。
格子の内側には御簾が下がる。
板戸はない。
風雨の強い日は、横なぐりの風や雨が格子をくぐって御簾を揺らし、社殿の外陣に入り込む。

天地自然そのものを神と仰ぐ、日本古来の信仰そのままに、風も雨も光も、戸に遮られることなく社の内外を行き来する。

古くから武将たちが参拝して、それで立派なお社が残ったらしい。
近くには源義経が元服をしたと伝えられている場所もある。
大きな祭礼は年に二回、豊作祈願の春祭りと秋の例祭だけだが、毎年旧暦で、正月二十日の夜に提灯をともして、神社にいらっしゃる八柱の神さんの内牛頭天王さんを除く七柱の神さんを地域の氏子の長老さん(頭人)が順に当番で自宅へお迎えして、家で毎日、塩やお水をお供えする。
期間は家によって違うが、六月十五日までとか、正月三日まで、正月二十日までとかまでお守りしていく。
そうした宮座行事が今も続いている。

室町時代から続く神事で頭人を務めた家の記録が残る。
斜格子戸の中の神は、格子を抜け、氏子の家、村や里、田の稲の上を満たして歩むのだろう。

五月の春祭りでは、地域の小学生たちが、木立に囲まれた本殿や拝殿の前の広場で「ションガイナ踊り」を奉納する。
ここ近年に復活した踊り。

農と祭りと神と人と古来の歴史。
鏡山と周囲に広がる水田の上をたくさんの風が渡り、里の人々の営みの間を国道が抜けて走る。
その道は昔も今も京につながる。


 
風神・雷神像

・風神・雷神像
2躯
鎌倉時代
風神・雷神の彫像としては日本最古とされる
1955年国宝指定

・大きさ、構造
いずれも檜材、寄木造、玉眼。
雲を思わせる台座に乗る。
風神は像高111.5センチ、肉身のの表面を緑青で彩色した鬼の姿。
耳がとがり、コモのくちばしのような上唇に牙を生やし、異形の半人半獣の姿が風を司る鬼神のイメージをかき立てる。
雷神は像高100.0センチで肉身を朱塗りにした鬼の姿。
手に桴を握り8個の太鼓を背負う。
中国人が古来思い描いてきた雷神の姿そのままを、鎌倉彫刻の写実的技法で動きのある立体に仕上げた。

・縁起
風神・雷神は中国・敦煌の壁画にあり、欧州の古代神話を描いた絵画にも風の神の姿がある。
三十三間堂の風神・雷神像は、日本の風神・雷神像の基本パターンになり、俵谷宗達が描いた「風神雷神図」(国宝・建仁寺所蔵)も、この像を基に絵画している。

・三十三間堂の文化財
蓮華王院本堂1棟(和洋の鎌倉建築の数少ない遺構、国宝)
二十八部衆(リアルな鎌倉彫刻 28躯 国宝)
風神・雷神像(鎌倉時代 2躯 国宝)
千手観音立像(平安・鎌倉時代 1001躯 重要文化財)
南大門(桃山時代 重文) など

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自然への畏怖、神仏の姿に

風神・雷神はともにインドの神だった。
風神は「風天」、雷神は水の神で、仏教に取り入れられ観世音菩薩を護る「二十八部衆」とともに造像され三十体一組の群像をなす。

中国では風神を「風伯」「風師」と呼び、東西南北それぞれに風の神がいる。
『三国志演義』で。名軍師諸葛孔明は七星壇に風の神を祀って東南の風を呼び、曹操の軍を破った。

雷神もまた中国で雷公、雷師、雷祖と呼ばれ、天帝の命を受けて罰を下す神だった。
漢代の画像石には連鼓をたたく力士の姿で描かれ、後に女神が配されて、雷公は椎で鏨を鳴らし雷母が銅鏡で稲光を出す。
中国の西域・敦煌莫高窟249窟(六世紀前半)の壁画には天空を疾駆する半人半獣の像が描かれ、風神は風袋を持ち、雷神は連鼓を持っている。
これが三十三間堂風神・雷神のルーツだという。

人力を超えた強大な自然現象に畏怖を感じ、神と崇めて、そのエネルギーを人為の世界に導こうとする心根は、京の都に鎌倉時代から眼力を効かす三十三間堂風神・雷神像の造像の際にも働いたのだろう。
スーパーエネルギーこそ人を利する神仏としたい。

日本では古くから雷神は水神・火神として天と地をつなぐとされ、全国各地の神社に雨乞いの霊験が伝わる。
上賀茂神社の祭神賀茂別雷大神は、雷の威力によってあらゆる厄を祓う厄除明神、落雷除、電機産業の守護神だ。
菅原道真を主祭神とした北野天満宮は火雷天神とも称され、絵巻物「北野天神絵巻」(国宝)は道真の生涯だけでなく天神の霊験や威力を厳しく描く。
北野天満宮の秋のずいき祭りは、雨を降らす雷を尊んだ古代の天神信仰を今に伝えるとされる。
風にちなむ東北地方の精霊「風の又三郎」、風の神送りと祖霊送りが融合した盆踊り越中八尾の「おわら風の盆」もよく知られる。

土着の多様な信仰を糾合集合し教化の眷属とした仏教。
日本の仏と神のかかわりを長年研究する菅原信海早稲田大学名誉教授は今、三十三間堂住職でもある妙法院門跡門主を務める。
不思議な因縁というほかない。

菅原門主は、仏教・儒教・神道を独自のダイナミズムでコンデンス(凝縮)した吉田神道が、明治の国家神道政策で冷遇されたことを悲しむ。
「吉田神道こそ日本固有の型に総合宗教思想をまとめ上げた営為だったのに」。
栃木県の日光輪王寺一山に生まれ、男体山や華厳の滝と仏教の神仏習合を見つめて暮らす門主ならではの世界だ。

巨大な千手観音菩薩坐像を中心に一千一体の千十観音立像が並ぶ三十三間堂蓮華王院。
堂内、雷神象は群像の前へ進む拝観者を北東角で出迎え、南東角では風神像が仏の海を長々と見つめ、拝し歩んだ人々を見送る。
神仏の像に託された膨大なエネルギーが国内外、東西から訪れた人々を静かに包み、温暖化で落ち着きを失った地球の大気、荒ぶる風神・雷神の世界へと送り出す。


 
兜跋毘沙門天立像

・兜跋毘沙門天立像
1躯
9世紀(中国・唐)
1955年国宝に指定

・大きさ、構造
高さ189.4センチ
桜の一木造りで腰の下の部分を内繰りし、蓋をしている。
胸、腰、腕、脚などに漆箔で細かな模様を浮き彫り状に施し、真っ黒な瞳は練り物をはめ、一部に彩色が残る。

・縁起
中国唐の時代の748年に外敵が西域の都城安西を取り囲んだ際、玄宗皇帝に召された僧不空が仁王教を供養すると安西城の北門の楼上に毘沙門天が姿を現し、敵を退散させたという。
この「宋高僧伝」などにある伝説を踏まえて、中国の都城は毘沙門天像を置くのだという。
教王護国寺(東寺)の歴史や寺宝などについて詳しく記した「東宝記」によると、東寺の兜跋毘沙門天立像は、もともと平安京の羅城門上に安置されていたが門倒壊後、東寺に移され、初めは講堂、後に食堂に置かれた。
文政6(1823)年には境内に毘沙門堂を建立して祀られ、昭和40年の宝物館開館以後、館2階に安置。

・文化財
境内全域は、ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」として登録されている。
国宝や重要文化財に指定された建造物や美術工芸品は数多い。
国宝の主なものは、五重塔や御影堂、彫刻では諸堂内の五菩薩(中尊以外の4躯)・五大明王・梵天・帝釈天・四天王の15躯の仏像、御影堂内の秘仏不動明王坐像と弘法大師坐像、ほかに八幡三神像、兜跋毘沙門天立像、絵画の真言七祖像、不動明王などの五大尊像、書跡では空海の真筆「風信帖」、工芸品の海賦蒔絵袈裟箱、金銅密教法具など。

境内にある宝物館は春(3月20日〜5月25日)と秋(9月20日〜11月25日)に特別公開している(有料)。

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都にたたずむ唐代西域の武人

東寺(教王護国寺)の境内、兜跋毘沙門天立像は、敷地北部の宝物館二階に祀られている。
やや離れた位置から拝すると、りりしく威厳のある容姿、歩を進め、間近から見上げると、若々しい表情とともに、ややふっくらとしたほおが不思議な肉感を帯びて見える。
黒い練り物の眼はリスのような愛らしささえ感じさせる。
豊かさ、ふくよかさとでも表現したらよいような柔らかな情趣に包まれる。

兜跋毘沙門天は、楼門上から外敵を睨んで王城・都城を守護するとされ、中国・唐代の作と考えられている。
胸甲と呼ぶ胸の鎧には人面をデザインし、鎖を編んで作った裾長の鎧「金鎖甲」が全身を覆う。
腕には防具「海老籠手」を着け、頭は縦長の宝冠。
冠の正面には毘沙門天の象徴でもある鳥の姿を浮き上がらせる。
左右の肩には、口をあけた獅子の顔を示す「獅噛」、帯の辺りでは牙をむく獣頭の意匠「帯喰」が睨みを効かす。
右手は、槍のような武器「戟」をつかみ武人の雄々しさそのもの。
随所を固めた中国の彫刻手法が清冽なイメージとなって凛とした美の光を放つ。

像の足底は、地中から上半身を現した地天が両手を差し出して受け支え、左から尼藍婆、右から毘藍婆の二鬼が介添えをする。

像をめぐっては。さまざまな説がある。
岡田健さんは論文「東寺毘沙門天像 - 羅城門と安置説と像立年代に関する考察 −」(左は「美術研究」=1998年3月、右は「同」2001年3月)で、従来の羅城門安置説と8−9世紀初頭像造説を批判、9世紀半ば以降の像立の論を展開した。
一方、松浦正昭さんは論文「毘沙門天法の請来と羅城門安置説」(「同」1998年3月)で、従来説を踏まえつつ、最澄がこの像を日本にもたらしたのではないかと推理する。

シルクロードの地、西域の印象を豊かに伝える兜跋毘沙門天立像は、さまざまな物語を従えて、この夏も京の猛々しい暑さの中を、コンクリート造りの宝物館の白壁の中で立ち続けた。

弘法大師空海を祀る御影堂南の毘沙門堂。
堂内の暗がりに目を凝らすと、金箔押しで仕上げられた兜跋毘沙門天の立像が奥にすっと立っていた。

唐の仏の木肌に刻まれた彫刀の冴と緊張感は、現代日本の気風の中で、金の薄衣に包まれて実に柔和であった。
中国西域の毘沙門天は、海を超えて日本の民間信仰の世界になじみ、現代日本の人々の難を除きつつ、民とともにある。


 
釈迦如来立像

・釈迦如来立像
1躯
中国・北宋の雍熙2(985)年造像
1955年国宝指定

・大きさ、構造
高さ162.6センチ
桜材、木造彩色駆截金
背板裏に「大宋國台州張延皎●(?)弟延襲雕」の銘がある。
連弁葺軸の底には墨書銘「健保六年大仏師法眼快慶修造」も。
像内から、絹製の五臓六腑(内臓)の模型、「紙本墨書「然入宋求法巡礼行並瑞造像立記」「版画弥勒菩薩像」、中国銅銭など約30種の納入品が見つかり、像とともに国宝に指定されている。

・縁起
清涼寺は嵯峨天皇の皇子・源融の山荘(後の棲霞寺)跡に立つ。
東大寺僧「然が宋に渡ってベン(サンズイ+下の上に、)京(河南省開封)で拝したインド伝来の釈迦像に感銘を受け、模刻させて986年に日本へ持ち帰った。
その像を本尊とする大伽藍造営を構想したが、現実を見ず寂滅。
師の願いを継いだ弟子盛算が棲霞寺境内に小堂を建てて像を祀り清涼寺と号したところ釈迦像への信仰が盛んになった。
いくたびか火災に遭い、法然の弟子念仏房が再興し、融通念仏の道場として栄えた。
本堂と釈迦如来立像の厨子は徳川綱吉と生母桂昌院が寄進。

・清涼寺の文化財
他の国宝に絹本著色十六羅漢像(16幅、北宋)、木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(棲霞寺旧本尊、3躯、平安)、重要文化財では紙本著色融通念仏縁起(2巻、室町)など多数。

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信仰と習俗とともに生きる

平安中期、中国の仏教聖地を巡礼した東大寺僧「然(938-1016年)は、そこに五台山さながらの大伽藍を造営せんと願った。

「然は、中国で「優テン(土+眞)王の釈迦瑞像」として崇敬を集めていたインド伝来という釈迦如来立像を拝し、深く感銘を受けた。
衣鉢を金に換えて中国の工人に模刻を発注、像を日本に持ち帰った。
由来は、像調査の際に胎内から見つかった「瑞像造立記」に詳しい。

像は、嵯峨釈迦堂辺りにあった源融の屋敷跡、棲霞寺境内に祀られ、権勢をふるった藤原道長が寺の運営を助けたことが「御堂関白記」寛仁二(1018)年正月の条からもうかがえる。

平安時代末、浄土宗を興した法然は比叡山延暦寺で修業の間、仏教の神髄を自覚しようと京の町に下り、民衆から熱く信仰されいたこの釈迦像参詣して、一途に救済を求める庶民の姿に、専修念仏の道への確信をつかむ。
法然はまた左京区・黒谷の西翁院から西山への入り日の折、瑞雲を目にしたという。
西方さらに彼方、インドから中国、日本へと伝来した釈迦如来立像は独自の衣文などから「清涼寺式釈迦」と呼ばれ、同種像の祖刑とされる。

柔らかなほほえみをたたえて厨子に納まる国宝の釈迦如来立像。
嵯峨は以前は農村で、春の大松明式では、ご本尊のお釈迦さんの前で早稲、中手、晩稲の三種になぞらえた大松明三本を祈祷し、堂前に立てて夜に点火、燃え具合でどの手の稲が豊作かを占うのである。
四月の御身拭式の布も、昔から帷子に仕立てて極楽往生を願うなど、お釈迦さんは嵯峨の土地や日本の民俗と一緒に生きてきている。


 

 

 

 

 

 
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